競馬で負けるということ
競馬は、宝くじなどとは違い、当てることができる。的中馬券は必ず存在し、それを買うことに何の障害もない。宝くじの場合、1等券は存在するが、自分が買う売場にそれがあるかどうかは保証されない。また、既に1等券が人の手に渡っていた場合、それを手にすることは不可能だ。運に頼る部分が多く、自らの力で的中させることが、ほぼ出来ない。競馬の場合、自らの力で的中させることが出来る。このへんが、明らかに違う。宝くじは、他力本願な部分が大きいのだ。競馬だって、他人が馬に乗ってそれを賭の対象にしているのだから他力本願じゃないか、という話もあるが、最終的に「選ぶ」という行為が賭ける側に委ねられているのだから、他力本願ではないはずだ。
株をやっている知り合いは、競馬は売り上げの2割は主催者側にとられてしまうところが納得いかない、と言っていた。馬券を買った時点で、2割の金額を失っていると。的中したとしても、本来の配当金の8割しか手に入らない。かなり、効率の悪いものだということを言われた。株の場合、手数料なんかはあるが、主催者に取られるなどということはなく、使う金額をすべて運用できる。さらに、株自信に価値があり、財産にもなるというのだ。
宝くじ、株、そして競馬。共通することは、自分の所持金を賭け、それ以上の金を得ること。宝くじは、年に2回、ダメもとで買っているからそんなに大げさなものではない、という人も、自分の金を出していることには変わりない。株は財産として持っている、という人も、ある日突然価値がなくなるかもしれないものを持っていることには変わりない。競馬は言うに及ばず...
何かを手にしようとしたら、必ず何かを失う。例えば、車を手に入れるには、それ相応の金がいる。では、金を手にしようとした場合はどうか。一番確実な方法は働くことだ。では、働くということは何を失うのか。ご存じのとおり、時間である。時間を失うということは、自由になる時間を失う=自分の時間を失うということで、平たく言えば、寿命を縮めることに等しい。職業によっては、文字どおり、命を削ることもあるだろう。金=命、である。金を賭けるということは、自分の命を賭けるということだ。なんと、競馬をするということは、命を賭けていることになるのだ。
などという結論は、なんと安易な発想だろう。働いている間は死んでいますか?働いている間は自分自身を表に出していませんか?働いている間はすべての行動に制約がつきますか?そんなことはないはずだ。失うものもあるかもしれないが、得るものは金だけじゃないはずだ。
とはいえ、無駄な時間を過ごすことには変わりない。ある程度、贅沢な生活をするには、自分の時間と引き替えに金を得るしかないのである。それがイヤであれば、浮浪者になるしかない。自分の時間を失わないかわりに、豊かな生活を手に出来ないだけの話だ。良い悪いは別として。それを語る資格はないが...
「競馬で負けるということ」とはどういうことだろうか。何も手に入れることができない上、何かを失うことであろう。「何か」とは金、時間、自信...
今一度、「競馬で負けるということ」を考え直してみたい。何も得るモノはないのだ。次への教訓としたり、いいレースだったから金はいい、などという考えもある。だが、そういった考え・甘えがある限り、とりあえず買ってみよう、とりあえず押さえておこう、適当に買ってみよう、といったムダを無くすことはできないだろう。「命を賭ける」は大袈裟だが、そのくらいの気持ちでもって、馬券というものを買ってみたい。負ければ、何も得られないのだ。得るためには、勝つしかない。勝たなければ、失うのみ。決して、軽い気持ちでは、やってはいけないことなのだ。
最近の成績不振を見かねて、自分自身にプレッシャーをかけてみました。ホント、このくらいの気持ちでやらねば、明るい未来はないぞ!?